都市伝説とその裏側

三十代会社員が都市伝説などの裏側を徹底的に検証していきます

本能寺の変の黒幕 天海僧正は明智光秀?人気のやりすぎ都市伝説を徹底検証

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本能寺の変の黒幕 天海僧正は明智光秀?人気のやりすぎ都市伝説を徹底検証

日本史において天海僧正ほど謎が多い人物はいません。一説によると108歳まで生き、徳川家康公に納豆を勧めるほどの健康オタクだったそうです。

天海僧正の不思議なところは、徳川家康の軍師格という最重要なポジションの役職にいながら・・・どこで生まれてどういうような経歴をたどってきたのかがほとんどわかっていないんですよね。

「ある日突然、天海僧正はいた」。ある日突然に天海僧正は存在し、天下分け目の関ヶ原の戦いの直前にある日突然出現し、徳川家康の横でいつのまにか側近中の側近として活躍しだしたそうです。

そしておかしな事に、天海僧正は「単なるお坊さん」なのに「戦のプロ」として徳川家康に「作戦」を申し上げて採用されちゃったりしています。

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Contents

ネットでウワサされる「本能寺の変の黒幕」

名無しさん
天皇だろ
名無しさん
秀吉は無いだろ アイツ一つ間違えば挟み撃ちされて死亡だぜ
名無しさん
何もかも上手くいったから良かったけど唯一の後ろ盾失った秀吉が一番やばいだろ
名無しさん
光秀はジジイなのに、若く描かれることが多いな
名無しさん
実際この後尾田家は内紛に突入するわけで それなのに黙って見てた毛利マジ無能
名無しさん
宗教戦争じゃないの、比叡山も焼かれて本能寺も焼かれて。
名無しさん
光秀=天海で黒幕は家康なんだろ?
名無しさん
夕方には京に入りそこからかなりの時間たってから謀反を起こしたとか 謀反起こす前に光秀は本能寺に赴き信長に謁見してそこで決定的な物別れがあったとか 最近はそういう説があるらしいね

ネットでも、明智光秀=天海僧正説がささやかれていますね。明智光秀は本当に徳川家康と通じていたのでしょうか。

仮に、明智光秀が徳川家康と通じていたのなら、各地にその証拠というか「爪あと」が残っているかもしれませんね・・・。

結論から言うと、各地に爪あとが残っています。どうして各地に「爪あと」を残したのでしょうか。

本当に優秀な陰謀や作戦って「敵や一般庶民に存在を一切知られない」ということだと思うんですよね。

だから、成功しちゃった優秀な陰謀って永遠に「陰謀論」でしか語られないんです。

証拠が残ってないし残されていないから。

明智光秀と徳川家康は、実は通じていた?

結論から言いますね。天海僧正と明智光秀は同一人物と仮定すると、歴史ミステリーとしては非常に興味深い事になります。

「天海僧正と明智光秀は同一人物である」と証明できそうな情況証拠が非常に多いのです。

多すぎると言ってもいいかもしれません。

上記のように思考していくと、「明智光秀と徳川家康は本能寺の変のウラ側で実は通じていたのではないか?」という仮説が成立してきます。当ブログではその仮説を検証すると共に明智光秀は天海僧正である?という仮説にも取り組んでいきたいと考えています。

本能寺の変の黒幕説

本能寺の変にはいろいろな黒幕説があります。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、公家・天皇家が黒幕だというラインも
匂わせています。

光秀と通じていたのは秀吉であるとする説、徳川家康が黒幕だという説。

その中でも特に有力な説に、
明智光秀と徳川家康が実は通じていた?という説があります。
この説には、いくつかの状況証拠も残っており、 真実味が非常に強い説です。

明智光秀は山崎の合戦後、農民に竹槍で突かれて死んだとされていますが、
それは影武者で 、その後、明智光秀は生き延び、家康に「天海僧正」として仕えたという説につながります。

やりすぎ都市伝説で話題に


動画は、やりすぎコージー都市伝説「家康の背後にいた男の正体」です。わざわざこの記事を読んでいただけるぐらいのあなたには、この動画を是非見ていただきたいと感じます。山田五郎さんの話がテンポが良くてわかりやすいので普通に興味深く聞けるかと思います。

敦賀と亀岡を統一していたのが、「明智光秀」だと。それを「つるとかめがすべった」と謎が多い”カゴメカゴメ”の歌詞に上手に掛けてみたりと、語り手の山田五郎さんのハナシが上手なので聞き入ってしまいますし、単なる都市伝説として見ても面白いですね。ですが、単なる都市伝説として天海=明智光秀説を結論付けるにはもったいほどの状況証拠があります。多すぎるのです。あまりにも多すぎます。びっくりするぐらい多いです。

語り手の山田五郎さんは、明智光秀は天海僧正だとか、わけのわからんことを言ってるのでしょうか。あたまがおかしくなったのでしょうか。それとも・・・・元々おかしいのでしょうか。

検証してみてみましょう。

歴史ミステリーシリーズでも話題に


歴史ミステリーシリーズの動画です
「明智光秀は生きていた!?家康と闇の同盟」という題名ですね

明智光秀は、山崎の合戦で死んでいなかった!と
まさかの驚きの内容です。

動画の本徳寺の住職は「明智光秀は生きていた」と断言していますね。

そして、日光東照宮に明智光秀が生きていたという証拠が!!!

  • 徳川家康は本能寺の変が起きる事を知っていた。
  • 明智光秀は徳川家康と通じていた
  • 明智光秀は山崎の合戦で、死んでいない
  • 明智光秀は天海僧正となり関ヶ原の戦いで家康の軍師となり
    江戸時代を霊的に守るシステムを構築した。

事実でしょうか。本当なのでしょうか。
日光東照宮には、なにがあるのでしょうか。
日光東照宮には明智光秀が生きた証拠があるのでしょうか。

日光東照宮に明智光秀が生きた証拠が?

徳川の家紋は「三つ葉葵」

徳川の家紋は三つ葉葵なんですが、何故か明智の「桔梗紋」が多いですね。
日光東照宮には、他にも桔梗紋があるそうです。

明智家の家紋「桔梗紋」の着物を着た武者が陽明門の左右に配置
日光東照宮を守っているそうです。
この武者の着物以外には、陽明門の天井にも「桔梗紋」があるそうです。

織田家の木瓜紋

「明智家の「桔梗紋」ではなく「織田木瓜紋」である」という人もいるそうです。
織田木瓜紋っぽい気もしますね。

織田家にとって徳川家は邪魔物だった?

長男信康に切腹を命じ、家康の正室 築山殿を殺害

松平信康自刃事件・並びに正室築山殿の殺害
あまり知られてはいませんが、徳川家には織田家と大きなトラブルがありました。

家康の正室・築山殿が武田家と内通してる疑いにより、
織田信長は、家康の長男・信康に切腹を命じます

信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。
手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。
信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた[5]。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した


via:松平信康 – Wikipedia

築山殿は、自害させられた松平信康の母方で、今川家の血筋にあたります。
徳姫は織田信長の長女。桶狭間の戦いにより今川義元は敗走死しています。
築山殿にとって、息子の嫁が「憎き信長の長女・徳姫」ということになります。

当然、徳姫と築山殿の折り合いは良いものではありませんでした。

徳姫が父信長に密書を送る

徳姫は、天正7年に「築山殿が武田家と内通している」
という内容の手紙を父・信長に送ります。

信長は徳川家を弱体化できる良い口実ができたと思ったかもしれませんね
徳川家重臣・酒井忠次は「何故か」松平信康をかばいませんでした。
その理由は今でもわかっていません。

徳川家中では、信康への処断に対し反対する声が強く、
織田家との同盟破棄の意見も あったそうです。

徳川家家臣 伊賀忍者で有名な服部半蔵正成は家康の長男・信康自刃の際、介錯人(主君が切腹の後 首を刎ねる役割)を務めましたが
涙で信康の首を刎ねる事はできなかったそうです。

後日、服部半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入り、西念寺を建立。信康を弔いました。

この時の半蔵の気持ちは半蔵にしかわかりませんが、
これ以降、服部半蔵は信長に対して良い感情を持つはずが無いことがわかります。

家康と長男 信康は対立していた!?

「家康と信康の深刻な対立から信康は自害させられた」という意見もあるそうです。

築山殿は傲慢で嫉妬深い女性だったと伝わっていますが
その史料の多くは江戸時代に編纂されたものです。

稀代の名将 今川義元も、一回信長に負けただけで江戸時代の講師に
滅茶苦茶に面白おかしく伝えられ、今の「麻呂イメージ」になってしまいました。

江戸時代に権現様・神様となった家康の正室をここまで言うのも「不自然」 ですね。

今川家の血を引く築山殿との政略結婚の価値がなくなったために
徳川家が築山殿を処断するための理由を正当化した。とも考えられます。


三河国・岡崎城は「北に織田信長・東に今川勢・北東から武田勢」と守るのが難しい
土地柄のように思います。

織田・今川・武田からの調略・計略もエグかったと思います。

携帯電話もメールもクルマも新幹線も無かった時代、
この時代の史料は真実なのだろうか。計略によって創作された史料ではないかと思う時があります。

嘘を嘘と見抜く事が難しかった時代かもしれません。


家康と信長は表向きは同盟関係でしたが、実情は
姉川の戦い等からわかりますが、家康は信長に良いように使われていただけと考えることができると思います。

伊賀忍者の助けを借りて摂津から三河へ逃げた?

光秀の配下や一揆等に襲われていたら徳川家への大打撃は必至であった。
家康は本能寺の変の報に際して取り乱し、一度は、光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自刃することを決意したが、本多忠勝を始めとする部下たちに説得され、三河へ帰ることとした。
この時、茶屋四郎次郎が行く先々で銀子を渡してトラブルを避けた


via:伊賀越え – Wikipedia

伊賀出身の家臣・服部半蔵が伊賀衆と交渉した説
堺の商人・茶屋四郎次郎清延が甲賀衆と交渉した説

いろんな説があるみたいですが、 実は家康は苦労していないようです。
忍者たちに守られ楽々帰ったということです。

徳川家康は”明智光秀勢”にビビりながら慌てて三河に逃げ帰ったはずでは?
一体どういうことなんでしょうか。

伊賀の国は明智光秀と関わりが深い土地柄

本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極氏等、呼応する形で勢力を拡大している。(他に北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等)


via:明智光秀 – Wikipedia

あまり知られてはいませんが、伊賀という土地柄は明智光秀とゆかりが深い
土地柄です

明智光秀とゆかりの深い伊賀の国人衆・伊賀衆の治める伊賀。

服部半蔵がいくら伊賀出身だとしても、光秀と通じている光秀の息のかかったスパイ だらけの伊賀を、わざわざ通ったのはどうしてでしょうか

不自然と考えていいと思います。

徳川家康はやはり、明智光秀と通じていたのではないでしょうか。

 

土岐氏は、所領を保証(所領安堵)された

土岐氏の「土岐桔梗」と呼ばれる家紋です。
明智家にも「桔梗紋」が伝わっています。

光秀は土岐氏の出身です。土岐氏は斎藤道三に稲葉山城を奪われた後、武田氏などを頼りました。
しかし、江戸時代になると所領を安堵されています。

土岐頼芸は天正10年(1582年)まで生きて天寿を全うし、その子・頼次と頼元は旗本として幕府に仕えた。治頼の子孫は紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍職を継いだ時に幕臣となった。


via:土岐氏 – Wikipedia

謀反人・明智光秀の出た家柄です。改易されお家おとりつぶしでも
文句言えない家柄なのに家名が存続しています。

徳川家と何か密約でもあったのではないか。と考えても不自然ではないです。

光秀の首実検

明智光秀の死は、誰も確認していない。

光秀は坂本を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の竹薮で落ち武者狩り(鎧や刀などを売るため、敗戦して逃げる途中の武将を殺すこと)の百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる

竹槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる
また谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。
光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。
実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。

via:明智光秀 – Wikipedia

光秀の死に関しては伝わるとか、言われるとか、伝承しかない。

光秀の首が秀吉の元に届けられた時、顔の皮が剥がされていた。
その話しが事実なら、どうして顔の皮を剥ぐ必要があったのでしょうか。

光秀の首は著しく腐敗していたことが、多くの史料に記されているみたいですね。
どうしてわざわざ多くの史料に記す必要があったのでしょうか。

光秀の首は腐敗が進みすぎており、だれの首かわからない状態だったそうです。

つまり、明智光秀が死んだことを確認した人物はだれもいなかったということです。

大阪府岸和田市 本徳寺に明智光秀の影

本徳寺(ほんとくじ)は、大阪府岸和田市にある臨済宗の寺院。
京都にある臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の末寺。山号は鳳凰山、本尊は釈迦牟尼仏。 南国梵桂が開基したと伝えられており、日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵していることで有名。


via:本徳寺 (岸和田市) – Wikipedia

大阪岸和田にある本徳寺に、 明智光秀の位牌があるそうです。
その位牌の裏に謎の文字「当寺開基慶長四巳亥」が刻まれているそうです。

慶長4年に光秀が寺の寄進者

「輝」「琇」[編集] 位牌の戒名は、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」。
肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書いてある。
この戒名の「輝」「琇」の字のなかに「光秀」という名前が隠れている。


via:本徳寺 (岸和田市) – Wikipedia

意味は「慶長4年に光秀が寺の寄進者」という意味だそうです。

「当寺開基慶長四巳亥」[編集] 光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「1599年(慶長4年)に当寺を開基した」と記されている。
光秀の位牌に書かれているということは寺を開基したのが光秀で、しかも慶長四年に光秀が生きていたことになる。


via:本徳寺 (岸和田市) – Wikipedia

本徳寺所蔵の明智光秀肖像画の裏には、「放下般舟三昧去」
(光秀は)仏門に入って去っていったとあるそうです。

仮に明智光秀が仏門に入ったのならば、天台宗主”天海僧正”と繋がってくる可能性が。

本徳寺所蔵の「明智光秀公肖像画」です。
本徳寺には光秀の子供が住職をしていたという言い伝えがあるそうです。

「願主光秀」の寄贈した石灯篭

「慶長二十年二月十七日、奉寄進願主光秀」

 

天台宗の総本山・比叡山松禅寺に光秀寄進の石灯篭があります。

慶長二十年とは、1615年の事です。光秀が亡くなったとされているのは1582年。

矛盾が生じます

光秀が死んでから30年以上経ってます
慶長二十年とは、豊臣家が滅亡する寸前の時期に相当します。

この”願主光秀”が明智光秀だとしたら、豊臣家が滅亡する寸前のこの時期に石灯籠を寄進ということは「やっと俺の時代が来るで」とウキウキしてたのでしょうか。

仮に、明智光秀が生きていたとしたら、87歳以上となり年齢的には可能な年齢です。

「願主」光秀とは?

この「願主光秀」とは何者なのでしょうか。
豊臣家滅亡を祈願しての明智光秀本人かもしくは、明智光秀ゆかりの人物でしょうか。

明智光秀にゆかりのある人物ならややこしいので、ちゃんと名乗って欲しいですねぇ。

この頃、比叡山南光坊に天海僧正がいて学徒を教えていたことがわかっています。

比叡山に”明智光秀”がいた?

叡山文庫 「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項に

『第二世法印権大僧都是春、
初名光秀、依光芸薙髪。及住当房監鶏足院。元和八年九月二十五日逝」

『長寿院の第二世法印であった権大僧都の是春は、俗名を光秀といった。
そして長寿院第一世の光芸によって薙髪を受けた。その後は鶏足院に起居した。
元和八年九月二十五日に逝く。』

逝くというのは去るという意味もあり元和八年に寺を去ったともとれます。
元和八年は天海が東叡山寛永寺建立にむけて動き出した頃かもしれません。

慈眼寺と慈眼大師

明智光秀の居城である亀山城があった京都府北桑田郡京北町周山に慈眼寺があります。
慈眼寺には、光秀の位牌と木像が安置されています。

一方、天海僧正の諱は「慈眼大師」です。偶然でしょうか。

天海僧正と明智光秀の筆跡鑑定

天海の書き残したものの筆跡と
光秀のそれを比較してみるとあまりにもよく似ている。
光秀が左手で書いていたのかも。
TBSテレビ「世界・ふしぎ発見」「東照宮の謎-徳川埋蔵金伝説を追え!」(H12.8.5)の中で、 光秀と天海の筆跡鑑定があり、「同一ではないが、親子のような近親者」という結果であった。


via:天海

光秀と天海僧正の筆跡鑑定の結果は、「同一ではないが、よく似ている」だそうです。

南光坊天海僧正の出自 人柄

明智光秀と 同一人物なら享年116歳

明智光秀と同一人物の可能性の高い”天海僧正”という人物はどのような人物なのでしょうか。

天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。


via:天海 – Wikipedia

天海僧正は自らの出自を弟子たちにさえ、語らなかったそうですね。
弟子達にはもっとこころをオープンにしても良かったのではないでしょうか。
なぜ、こころをオープンに”ありのままに”生きれなかったのでしょうか。

生年[編集] 天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。


via:天海 – Wikipedia

長命だったことは確かみたいですね。
徳川家康に納豆を勧めてみたり、相当の健康オタクだったそうです。

健康オタク 天海僧正は相当のご長寿だった

天海は前半生に関する史料がほとんど無いものの当時としてはかなりの長寿であり、大師号を贈られるほどの高僧になった


via:天海 – Wikipedia

天海僧正は相当のご長寿だったことがわかりますね。

筆跡鑑定の結果 親子のような近親者

天海と光秀が同一人物だと享年は116になり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理があるが、両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされている。テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定[6][7]によると天海と光秀は別人であるが類似した文字が幾つかあり、2人は親子のような近親者と推定できるという


via:天海 – Wikipedia

いくらご長寿といえでも、享年116はムリがありますねぇ
物的証拠・情況証拠・筆跡鑑定など材料は非常に多いのですが。

大坂城の建物を利用した博物館・大阪城天守閣は、天海所用の伝承がある甲冑を所蔵している。


via:天海 – Wikipedia

一介のお坊さんが甲冑を持てて、しかもその甲冑が後世まで伝承されると。
伝説に過ぎないのかもしれませんが、そのような伝説が生まれること自体
よぉく考えるとおかしいですね。

戦国時代は確かに、毛利の怪僧安国寺恵瓊など僧侶が外交官になったりしてましたが
安国寺恵瓊の甲冑は後世に残っていませんし、だれも残そうとしていないようです。

関ヶ原合戦屏風に描かれる「南光坊天海僧正」

歴戦の武将達を差し置いて作戦を立案

上の図が関ヶ原合戦屏風絵巻で、下の図がそこに描かれている「南光坊天海僧正」です。

「南光坊天海僧正」は、坊主のはずなのにどこかの偉い大将のような描かれ方ですね。

1600年の関ヶ原の戦いにおいて「南光坊天海僧正」は、
家康の参謀としての役割を果たしたといいます。

関ヶ原合戦屏風の「南光坊天海僧正」の様子は、
立派な甲冑に身を包み坊主というよりは「軍師」ですね。

関ヶ原の戦いには本多忠勝等歴戦の勇士が参加していました。
(忠勝は諸事情により足軽500勢でしたが)

坊主が徳川家康に作戦指導する「軍師」扱い?

そのような歴戦の強者達を差し置いて、そのような「軍師」扱いは
ありえるのでしょうか。

ブログ管理人が本多忠勝レベルの徳川家ベテラン勢なら、ブチギレです。
ぽっと出の、よぉわからん坊主が上様に作戦をバリバリ申告して
バリバリ採用されまくってるという状況。

ところが、天海僧正が明智光秀なら大先輩どころかレジェンドクラスですよね。
本能寺の変で織田信長を殺したなんて実績はレジェンド以外の何物でもありません。
「わたくしめ、本多忠勝めが明智光秀殿のお教えを請いたいのでござりまするー。」
って手のひらを返すと思います。

天海僧正=レジェンドを匂わすような逸話が他にも残っているみたいですね。

織田昌澄

生母は明智光秀とその継室妻木煕子の娘のため、光秀と煕子の外孫にあたる。


via:織田昌澄 – Wikipedia

織田昌澄は、豊臣方として徳川家と戦います
大阪冬の陣で活躍して豊臣秀頼から褒章を受けたりしてますね。

大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、高虎のとりなしを受けて徳川家康に助命された。以後、剃髪して道半斎と号する。


via:織田昌澄 – Wikipedia


助命された後は、二代将軍秀忠に旗本として召し抱えられて2000石をもらっています。

この件に天海僧正がどれだけ関わったかは、史料としては残っていないみたいですね。

 

織田昌澄 まとめ

敵方として散々徳川家を苦しめたのに、
助命されてしかも二千石の旗本にまで出世できた。

徳川家を苦しめた人物であり、本来ならば打首でもいいぐらいの人物が
助命されてしかも出世しています。おかしいですね。

明智光秀 筆頭家老・斎藤利三の娘「お福」と天海僧正

斎藤利三の娘「お福」とは、
後に江戸城大奥で絶大な権力を誇ることになる「春日局」です。

大河ドラマでもおなじみの「春日局」ですね。

この「お福」の父・斎藤利三は、明智光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗北した際に捕縛
され 六条河原で処刑・首をさらされました。

そのためお福は豊臣時代は逆賊の娘として非常に苦労するのですが
豊臣が倒れ、徳川の天下になった途端なぜか、
三代目将軍家光の乳母として大抜擢されてしまいます。

どうして徳川家康は三代目将軍家光の乳母に、明智光秀の重臣の娘「お福」を
選んだのでしょうか。

光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になったこと


via:明智光秀 – Wikipedia

明智光秀の重臣の娘「お福」が「天海僧正」に会った時、
初対面なのに、「お久しぶりです」と挨拶したそうです。

そして、家光の乳母「春日局」となり、大奥で絶大な権力を握ったとされています。

東叡山開山慈眼大師縁起

慶長十三年、天海が駿府を訪れ家康と面会をした時に
『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。

大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく
前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」
と目を見張った』 とあるといいます。

この時は結局一刻ほどずっと話し合っていたといいます。

明智光秀は天海僧正である

根拠のまとめとしては。

日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[33]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があること[34]。

天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。

徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測

光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること

学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、その時、着たとされる鎧が残っていること[35]

光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になったこと

光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)

テレビ東京が特別番組で天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[36]

童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[37]


via:明智光秀 – Wikipedia


ところが、明智光秀=天海僧正説にはれっきとした反証があります。

上記の根拠には以下の反証が挙げられている。

日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない

寛永寺の公式記録では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。

天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。

比叡山の石碑に関しては後世の偽造との説も出ている。

天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する)が生じる。

諱についても秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。

関ヶ原の戦いで西軍に与した光秀と懇意であった長宗我部氏の処分に異を唱えたことが見受けられない。


via:明智光秀 – Wikipedia

日光東照宮には明智家の桔梗紋があるという説がネットでは多いみたいですが
あれは、織田家のものであるという説も根強いですね。

明智光秀は天海僧正である。まとめ

わかりません。

そうです。だれにもわからないのです。
twitterをのぞいても天海僧正の真相はわかりませんでした。

ただ、ひとつだけ言えることは、私はこの記事を執筆していて非常に楽しかったです。
いろんな動画を見て、いろんな記事を読んで非常に勉強になりました。

ここまで駄文につきあってくれてありがとう。読むだけでも疲れたと思います。

なにか結論づけたかったのですが、結論には至りませんでした。

もし、私がこの件について確信のある結論を持っていたら
ネットではなく、堂々と本を執筆し発表していると思います。

この私の記事を読んで、ワクワクしてもらえたらならそれ以上の喜びはありません。

ABOUT THE AUTHOR

maezaki
芸能界の裏側を追いかける記事が多いと思います。

芸能界の裏側はそのまま日本の裏側に直結してしまいますね。

祖父は大東亜戦争において徐州攻略戦に参加していました。

祖父の話してくれる中国人達との交流?と小中高と強制的に学習させられた平和学習に大きなギャップを感じたのが日本の裏側に興味を持ったきっかけです。

祖父は五年前に他界しました。もっといろいろ聞けば良かった。

詳しいプロフィールや当ブログを始めた理由

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